投稿者: shuzo-diary@

  • 星の王子さまから

    同じようなもの、人、関係、役割…
    たくさんこの世界にはあるし、規則計画通りに進む世界。
    僕も無駄を嫌ったりするけど、
    きっとそれは、結果が出ないと怖い。
    という、大人というウオバミやバオバブの恐怖に怯えていたのかもしれない。

    無駄はたしかに時間はかかる。
    でも、
    無駄とも思える時間をたくさんかけてきた大切なことほど、
    目に見えるものも目に見えないものも、
    自分にとってはたった一つだけの
    もの、人、関係、役割、になるんだな。

    星の王子さまでのキツネの言葉と、
    バオバブいっぱいの大人のことで思った。

    上手に生きようとあまり、
    啓発本や人やいろんなものを探し求めてきたけど、結局どこにも、上手く生きる、なんて答えなんて、時間かけずに手に入るわけはないんだな。
    と。

    今の仕事も、
    大した仕事はやってるわけでなくて、
    掃除とか庶務作業とか。
    でも、今は無駄とかつまらない、と思うけど、
    その、無駄やつまらない時間も含めたたくさんの時間を費やさないと、
    自分にとってのたった一つの仕事にはならないのかも。

    何度読んでも不思議なストーリーだな。
    星の王子さまは。
    映画もだけど。

  • 藤井風の帰ろう

    藤井風の”帰ろう”好き。

    帰ろう、の意味が、
    そもそも、すべての人間の故郷に帰ろう=生死をテーマにした曲だから。

    人は故郷に帰る(死ぬ)ために、
    旅路を歩く(生きている)だけ。
    なんだよね。

    本当の始まりは故郷に帰ってから。

    人それぞれの死生観はあるけど、
    肉体ある現世は、
    修行にしにきてるもんだ、と思う。
    だから現世では苦が全てにおいてあるんだと。

    生きてないと、
    人は故郷(死後の世界)に帰れないと思う。

    死後の世界は、苦とか楽の概念はなく、
    想像でしかないけど、想念の世界だと思う。
    苦しくもないけど、楽でもない。

    現世は、苦楽の概念があって、
    苦しいことも、楽しいこともある。
    現世じゃないと修行にならんよね。

    曼陀羅の絵図のように、
    現世にも死後の世界にも共通した、
    構図がある。

    解釈は100人いたら百通りだと思うけど。

    今日1日1日をどう生きるか、は、
    故郷に帰った(死後の)何かに相関があるんだな、、とは、なんかの宗教に影響特にされたわけでもなく、啓示があるわけでもないけど、
    昔からこうゆうこと考えるの好きで、
    自然に思う。

  • 青い鳥

    青い鳥。
    という映画を昨日借りたもので観た。
    とある学校で起きた事件により、
    療養中の担任代理で来た
    重度の吃音を持つ臨時教師。
    クラスの中で起きたいじめによる自殺未遂の生徒とクラスメイト。

    そこでの大人都合でしかない教育現場。
    それに正面切って本気で向き合う臨時教師。

    重度の吃音をもつ臨時教師の言葉に、
    「強くなんてならなくていいんだ。人間なんか所詮弱いんだ。」
    「一からやり直そうなんて卑怯だ。」
    「みんな間違ってる。人を嫌うからいじめ、人を集団で責めるからいじめじゃない。」

    いじめは、
    「苦しい辛いの声に気づかないフリをしたり、その人の気持ちを踏みにじったりすることがいじめなんだ。」

    今の自分にも当てはまるし、
    今の犯人探しだらけの社会にも、
    突きつけられたテーマだと思う。

    青い鳥って結局、最期はその問題から逃げてしまう。けれど、この映画は真摯に最期まで生徒も教師も向き合った。
    青い鳥が題名だけれど、
    まさしくこの課題に直視してない我々大人たちも、大人という肩書を借りた、「青い鳥」ではないだろうか?

    かくいう自分も過去に虐められる側、
    虐める側両方に立ってしまった過去がある。
    でも、それを無いことには決してならないし、
    問題を風化させることが責任じゃ無いと思う。

    学校であろうと会社であろうと、組織であることには変わりない。

    まるで人間は蟻みたいな生き物だ。
    蟻にも色々いる。
    働きアリ、怠けアリ、支配者アリ、
    弱者アリ、兵隊アリ、、、

    アリは結局、自らより大きい物がこれば、どれだけ強かろうと意図も簡単に弱くなる。

    そんなアリと僕ら人間はなんら変わらない。

  • つれづれ

    ふと悩むこと。たしかに僕は既成概念に囚われてると言われればそうなのかもしれない。男は外で働いて、ということ。かつて僕自身が婚約破談に至った時の過ちを改心したくて1年強仕事にのめり込むようにとりあえず仕事にはどうであれ休まず行く、仕事を辞めても直ぐに次の仕事をして間髪開けず働く、ということをしていたけれど反面、身体にはかなり体調面で悪化の一途を辿ってはいた。
    そうやって、僕自身の仕事に対しての価値観を鞭打ってやってきたわけだけど。

    ただ、今はどうかといえば、今は岩手に引っ越したというのもあるけれど、家事や雑務、頼まれごとをこなしつつ仕事探しをボチボチという感じで…
    彼女はといえば、僕が岩手に引っ越してきてからは人が変わったように仕事をこなしている。

    今後結婚後も、僕は仕事は働いても体調優先で短時間勤務で家の家事(料理は後方支援)や雑務、子どもが生まれればもちろんそれもだけれど…
    彼女は仕事をボチボチながらにも働きに行ってる。

    彼女からも
    「まだ慣れないのも当然だから土地や人や環境に慣れつつ、体調やライフスタイルに合わせた働き方をしたらいいよ。」
    と言ってくれたのだけど…

    それでいいんだろうか…
    そう悩む時がある。

    さっき、祭壇にむけて、
    「神様、どうしたらええんやろか…」
    と祈ってると、
    「〇〇さん(彼女)に仕えることがあなたの仕事なのよ。」
    とふとその言葉がよぎる。

    聖書を開けば、
    「キリストが愛したようにあなたの妻を愛しなさい」
    それはつまり、
    「命を捧げるように妻を愛しなさい。」
    ということは、
    「命を捧げるように妻に尽くしなさい」
    ということなのかもしれない。



    ただ現実問題、家事に関しては彼女より僕の方がこだわりはあるし、多分お金以外の家のことは彼女より僕の方がこだわりがあるのかもしれない。

    あんまり彼女にはいえないけれど、彼女が一通りやった家事でもやり残しや半端なところ、気になったところは夜や日中に何気なく片付けてるのはある。

    一方で僕は仕事のこととなると途端に不器用で人間関係でも躓いてしまい転々としてしまう…

    男なら…ということに僕が囚われすぎなのか…
    既成概念に囚われすぎなのか…
    それとも自分が甘えているのか…

  • 手放すことと許すこと

    今日、ふと長風呂をしながら祈りつつ、一人の時間を持つようにただただ己を見つめ直していた。

    そういえば、自分は手放せないことがあるのかな、とふと思いながら。

    僕の過去、信仰を持った経緯などやその過程においては、正直なところ人には話すことができないほどのドロドロだから人に言えることでもない。

    ただ、さらに遡ることの過去に、

    斎藤一人さん、という方の本の出会いがあった。

    その方の本には、

    言霊、

    天国言葉と地獄言葉、

    ツヤとキラキラと天国言葉

    過去形で人の幸せを願う

    劣等感の克服

    結婚は修行

    困ったことは起こらない

    →(人は困らなければ学ばない。)

    →ありがたいとは有り難いと書く。無難ではないから有り難し。

    癌とは、やまいだれ、しなもの、やま、と書いて癌。

    つまり、食べ過ぎは良くなく適度に運動して、言霊を変える。

    人の病の原因は、自分をゆるせないこと。自分を許せないから人も許せない。許すとは緩むこと。

    許せない自分を許します。と言霊にすること。

    自分の様々な言動が自分の身に降り掛かったとき、

    これで因果が消えた。有り難い。

    などがあった。

    遡ること中学高校のときに、このことを母から教えてもらった。

    聖書を読んでいて、罪は赦された。

    というのは、つまり、許せない自分を許すことから始まるのかな、と思った。

    また、忍耐というのも、忍辱ともいうけれども、

    わかりやすく言えば、返ってきた因果に対して、有り難い。と言って言霊で返していくことでそこで解消をすることにも通じるのかもしれない。

    このことは、二十歳ぐらいから世間のことに惑わされて一度捨てたことだったけど、こうして聖書を学ぶ中で通じるものが多々あった。

    彼女からも、もしかしたらあなたのなかで許せないことがあるのかもよ。それを許すこと、自分を許すことでみえてくるのかもよ。

    と言われたときハッとした。

    人は様々なものを通して学ぶのだな。と感じたとともに、許せない自分を許していきたいと思った。

  • 愛は与えなければ貰えない、と、大愚元勝和尚

    「愛は与えなきゃ貰えない」

    この言葉は、さくらの親子丼2のクライマックスにおけるとあるシーンのセリフ。

    僕がこれを知ったのはさくらの親子丼2をやっていた頃の2019年の1月。

    当時は母親を亡くしてちょうど一周忌から少し経った頃で、なおかつ2回目のひとり暮らしを名古屋・熱田で始めた頃。

    その時の自分は、

    「弟たちばっかりでずるい、あいつらばかり。」

    そう思ってきた。

    正直許せなかったし、自分ばっかりなんで…

    という気持ちと、自分のことより弟たちのことばかり、という親、父親への怒りが強かった。

    「父ちゃんのせいで母ちゃんは死んだんだ」

    という言葉も投げつけたりもしてきた。

    ただ、ふとこの「愛は与えなきゃ貰えない」

    という言葉が頭に残っていて、その意味はなんだろうと考えていた。

    その年の夏、僕はとうとう一人暮らしが行き詰まり、

    生活保護を受ける覚悟をしながら、次の仕事のことでいっぱいだった。

    そうして、一度、キリスト教会からも離れて、僕は、

    僧修行かのように愛知県小牧市にある「福厳寺」の「大愚元勝和尚の一問一答」というYouTubeチャンネルをみつけてひたすら自分を見つめる時間と朝晩のお勤めをしていた。

    そこのYouTubeチャンネルで大愚元勝和尚宛に届いた親子問題を取り扱う内容に大愚元勝和尚が答えているYouTubeをみたときに、今までの納得のいかなかった点と点が線で結ばれた気がした。

    「親ももともとは何もわからないところから始まり、もともとは一人の子供であり青年であった。親になったからといって、親になれるものでもない。」

    という内容だった。

    僕は母親を亡くしてどん底な上に、弟贔屓な父親を許せなかったけれど、この大愚元勝和尚のYouTubeをみることで心の何かが少しずつ取れていく感じがした。

    また、とある小説だったか、映画のワンシーンでも、

    親に変わって欲しければまずは自分が変われよ。

    というセリフ。

    当時は理解できなかったけれど、今なら理解はできる。

    僕は父方の親族はこれらのことを理解できるまでは敬遠したけれど、母と自分とでの家族介護の日々の末母方の祖父母が亡くなり、その数年後に母が亡くなり、自分は自動車事故で死に損なって、一命を取り留めてすぐ名古屋熱田で一人暮らしをしたものの生活保護寸前に陥って、はじめていろいろなことに気付かされた。

    その出来事からもう数年は経つけれど、今となっては、親だから、という思いはあまりなくなり、親も辛いんだな、でも頑張ってるんだな…自分は自分でやること精一杯、自分のために頑張ろ。というふうに、親のことと自分のことを分離して考えるようになった。

    親のことを恨んでも仕方がない。まして亡くなった母親のことを恨んでも死人に口なし。

    ふと僕は今でも思う。

    自分はクリスチャンではあるものの、仏教のことも学び取り入れることは人間の生き様を良いものにするには必用だと思う、と。

    大愚元勝の一問一答、YouTubeでぜひ見てみてください。

  • 諦めるという作業が人生の中では必要だと思う。

    今日は1日を思いの外アクティブに過ごした。

    喧嘩もしたけれど、耳を傾けて聞いてみればなんてことのない。ああ、そうゆうことだったのか、と思ったよ。

    1日こうして過ごしてみて発見があった。

    諦めるという作業が人生において必要なのだと。

    諦観、あるいは、大諦、といったりもするけれども、

    物事を明らかに眺めて整理をする。という意味でもあったりする。

    日本語というのは不思議なもので日常の言葉の殆どは仏教用語に由来していたり、または若干キリスト教用語にも由来をしていたりと宗教に由来する言葉が多く存在する。

    人の為、と書いて、偽り。と書くのもそう。

    〇〇の為に、という言葉を耳にするが、これも、

    人の為、と書いて、偽り、であって、実は人の為でなく自分のためであったりする。

    偽り、という言葉のうち、我を抜くと、為となる。

    というのは、人の為でなくなったとき、はじめてそこで目的を成すのだろう。

    恋と愛もそう。下心と真心。の違い。

    話を戻すが、諦めるということは、決して僕は悪いイメージがない。むしろ、諦めることで人生がある種、シンプルにより生きられるのではないかとも思う。

    日常生活において、僕らは情報過多で執着の過ぎる世界で生きていたりする。

    でも、歳を重ねていくことで僕らはその世界で生きていく中での諦めるという作業を成していかなければいけなかったりするし、ある種、それをしないがゆえの生きづらさを抱えたりする。

    キリスト教では神に委ねなさい、というが、これも言い換えれば、自分の執着を手放しなさい、自分の執着を諦めなさい、故に、天に任せなさい。ということでもあるのだと思う。

    僕はどれだけ諦められるかで人生がどれだけシンプルに生きられるか、ということになるのではないか、と感じてる。

    諦めないこと、という言葉をネガティブな言葉にとらわれがちだけれども、決してそんなことはない。

    どれだけ諦めることができたか、つまり、必要のあるものとないものをどれだけ整理できたかで生きづらさは変わってくるものだと僕は思ってる。

  • 税金と還元率

    昨今、税金が上がり続けていることのニュースが多い。

    しかし、肝心なのは税金が高いことが問題なのではない。

    税金と還元率が見合ってないことに国民が激怒していることではないか。

    税金は本来、暮らしを豊かにするために使われるものでなければならない。

    もちろん、その中には国民の暮らしにおいて還元されるされることも含めて。

    昨今様々な法律や制度が成立をしているが、行政は基本申請主義をとっているために

    その税金からの還元される制度を広く国民に知らせていないところにも問題がある。

    また、その手続きの煩雑さから諦めてしまう方々も多く見えることであろう。

    税金が高いならば、それだけの還元がなされることがベストではないだろうか。

    いわば、税金は還元率で評価するもの、と思うのだが。

    いかがだろうか。

  • 家庭菜園 害虫駆除のヒント

    自分がかつて食糧難に陥った時にやっていたことの一つに

    プランターでの野菜作り

    がある。

    プランターでの野菜作りは本当に奥が深い。

    底が深いプランターを使えばジャガイモなどができるし、浅底のものであれば、

    シソやハツカダイコン(ラディッシュ)、キャベツやレタス、ホウレンソウなど菜っ葉類、

    などができる。

    意外と家庭菜園は放置しておいてもできてしまう野菜がそれなりにあったりする。

    特にトマトやシソ、レタス、ホウレンソウなどは水やりだけは行ってあとは放置してもそれなりに

    そだってしまうもの。

    また、農薬なども気になるところだが、木酢液というものが天然由来の成分ゆえにお勧めしたい。

    これは炭を作る際にできる液体なのだが、害虫駆除や害虫除けの効果がある。

    ホームセンターなどで販売してるとは思うが、これと、

    ・ペットボトル

    ・100均のペットボトル装着用霧吹き

    を用意して、ペットボトルに木酢液を入れて霧吹きのように使うことでかなり便利に使うことが

    できる。

    一度お試しあれ。

  • 初投稿

    しゅーぞの日日是好日diaryをご覧いただきありがとうございます。

    日々の雑記から知恵袋までをつらつらと書き記していこうと思います。

    しゅーぞー、とは僕のニックネームです。

    中日本の地域で生まれ育った自分が今は結婚を機に北日本の地域に住んでいます。

    また、自分自身は変わった人間というよりは、発達障害(ADHD強め)

    であり、また、二次障がいもある男性です。

    さらにいえば、2021年に洗礼を受け、プロテスタントのクリスチャンでもあります。

    求道者としては2018年の夏からであったのでそこそこに時間が経っています

    日常の中では多くの労苦はあり、幼少期は隠れ貧困家庭といってもいいのでしょうか、

    つまり表面上はそうは見えないものの、電気ガス水道が止まったり、白米一杯しかない時もあれば、

    冬は暖房もストーブもつけられない日もたくさんありました。

    学校の給食での食事がなにより僕にとってはおいしく食べられる時で大好きでしたし、

    不登校の時にも今は亡き母にも給食だけ食べに行ってらっしゃいと言われることも多々ありました。

    ただ、そんな中でも廃材を使って工作したり、荒れた庭を開拓して土も改良して家庭菜園の庭に

    作り変えてそこで夕食で賄う野菜を育てたり、魚も海側に出ては釣りに出かけて魚を釣ってきたり、

    まるで自給自足のような生活をしていました。

    貧困になっていたからこそ生きる知恵をたくさんもらった時期でもありました。

    すべては必要だから起こることなのかもしれないと感じることでもありました。

    恋愛においてはそこそこほど恋愛をしてきて、本当に嫌気がさすほど

    ぐらいしてきました。

    正直に言えば、そうゆう嫌気がさすほどぐらいなので女性不信なところは

    あります。

    そんなこんなを徒然としてこのブログでは綴ってきます。