愛は与えなければ貰えない、と、大愚元勝和尚

「愛は与えなきゃ貰えない」

この言葉は、さくらの親子丼2のクライマックスにおけるとあるシーンのセリフ。

僕がこれを知ったのはさくらの親子丼2をやっていた頃の2019年の1月。

当時は母親を亡くしてちょうど一周忌から少し経った頃で、なおかつ2回目のひとり暮らしを名古屋・熱田で始めた頃。

その時の自分は、

「弟たちばっかりでずるい、あいつらばかり。」

そう思ってきた。

正直許せなかったし、自分ばっかりなんで…

という気持ちと、自分のことより弟たちのことばかり、という親、父親への怒りが強かった。

「父ちゃんのせいで母ちゃんは死んだんだ」

という言葉も投げつけたりもしてきた。

ただ、ふとこの「愛は与えなきゃ貰えない」

という言葉が頭に残っていて、その意味はなんだろうと考えていた。

その年の夏、僕はとうとう一人暮らしが行き詰まり、

生活保護を受ける覚悟をしながら、次の仕事のことでいっぱいだった。

そうして、一度、キリスト教会からも離れて、僕は、

僧修行かのように愛知県小牧市にある「福厳寺」の「大愚元勝和尚の一問一答」というYouTubeチャンネルをみつけてひたすら自分を見つめる時間と朝晩のお勤めをしていた。

そこのYouTubeチャンネルで大愚元勝和尚宛に届いた親子問題を取り扱う内容に大愚元勝和尚が答えているYouTubeをみたときに、今までの納得のいかなかった点と点が線で結ばれた気がした。

「親ももともとは何もわからないところから始まり、もともとは一人の子供であり青年であった。親になったからといって、親になれるものでもない。」

という内容だった。

僕は母親を亡くしてどん底な上に、弟贔屓な父親を許せなかったけれど、この大愚元勝和尚のYouTubeをみることで心の何かが少しずつ取れていく感じがした。

また、とある小説だったか、映画のワンシーンでも、

親に変わって欲しければまずは自分が変われよ。

というセリフ。

当時は理解できなかったけれど、今なら理解はできる。

僕は父方の親族はこれらのことを理解できるまでは敬遠したけれど、母と自分とでの家族介護の日々の末母方の祖父母が亡くなり、その数年後に母が亡くなり、自分は自動車事故で死に損なって、一命を取り留めてすぐ名古屋熱田で一人暮らしをしたものの生活保護寸前に陥って、はじめていろいろなことに気付かされた。

その出来事からもう数年は経つけれど、今となっては、親だから、という思いはあまりなくなり、親も辛いんだな、でも頑張ってるんだな…自分は自分でやること精一杯、自分のために頑張ろ。というふうに、親のことと自分のことを分離して考えるようになった。

親のことを恨んでも仕方がない。まして亡くなった母親のことを恨んでも死人に口なし。

ふと僕は今でも思う。

自分はクリスチャンではあるものの、仏教のことも学び取り入れることは人間の生き様を良いものにするには必用だと思う、と。

大愚元勝の一問一答、YouTubeでぜひ見てみてください。

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