諦めるという作業が人生の中では必要だと思う。

今日は1日を思いの外アクティブに過ごした。

喧嘩もしたけれど、耳を傾けて聞いてみればなんてことのない。ああ、そうゆうことだったのか、と思ったよ。

1日こうして過ごしてみて発見があった。

諦めるという作業が人生において必要なのだと。

諦観、あるいは、大諦、といったりもするけれども、

物事を明らかに眺めて整理をする。という意味でもあったりする。

日本語というのは不思議なもので日常の言葉の殆どは仏教用語に由来していたり、または若干キリスト教用語にも由来をしていたりと宗教に由来する言葉が多く存在する。

人の為、と書いて、偽り。と書くのもそう。

〇〇の為に、という言葉を耳にするが、これも、

人の為、と書いて、偽り、であって、実は人の為でなく自分のためであったりする。

偽り、という言葉のうち、我を抜くと、為となる。

というのは、人の為でなくなったとき、はじめてそこで目的を成すのだろう。

恋と愛もそう。下心と真心。の違い。

話を戻すが、諦めるということは、決して僕は悪いイメージがない。むしろ、諦めることで人生がある種、シンプルにより生きられるのではないかとも思う。

日常生活において、僕らは情報過多で執着の過ぎる世界で生きていたりする。

でも、歳を重ねていくことで僕らはその世界で生きていく中での諦めるという作業を成していかなければいけなかったりするし、ある種、それをしないがゆえの生きづらさを抱えたりする。

キリスト教では神に委ねなさい、というが、これも言い換えれば、自分の執着を手放しなさい、自分の執着を諦めなさい、故に、天に任せなさい。ということでもあるのだと思う。

僕はどれだけ諦められるかで人生がどれだけシンプルに生きられるか、ということになるのではないか、と感じてる。

諦めないこと、という言葉をネガティブな言葉にとらわれがちだけれども、決してそんなことはない。

どれだけ諦めることができたか、つまり、必要のあるものとないものをどれだけ整理できたかで生きづらさは変わってくるものだと僕は思ってる。

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