今日、ふと長風呂をしながら祈りつつ、一人の時間を持つようにただただ己を見つめ直していた。
そういえば、自分は手放せないことがあるのかな、とふと思いながら。
僕の過去、信仰を持った経緯などやその過程においては、正直なところ人には話すことができないほどのドロドロだから人に言えることでもない。
ただ、さらに遡ることの過去に、
斎藤一人さん、という方の本の出会いがあった。
その方の本には、
言霊、
天国言葉と地獄言葉、
ツヤとキラキラと天国言葉
過去形で人の幸せを願う
劣等感の克服
結婚は修行
困ったことは起こらない
→(人は困らなければ学ばない。)
→ありがたいとは有り難いと書く。無難ではないから有り難し。
癌とは、やまいだれ、しなもの、やま、と書いて癌。
つまり、食べ過ぎは良くなく適度に運動して、言霊を変える。
人の病の原因は、自分をゆるせないこと。自分を許せないから人も許せない。許すとは緩むこと。
許せない自分を許します。と言霊にすること。
自分の様々な言動が自分の身に降り掛かったとき、
これで因果が消えた。有り難い。
などがあった。
遡ること中学高校のときに、このことを母から教えてもらった。
聖書を読んでいて、罪は赦された。
というのは、つまり、許せない自分を許すことから始まるのかな、と思った。
また、忍耐というのも、忍辱ともいうけれども、
わかりやすく言えば、返ってきた因果に対して、有り難い。と言って言霊で返していくことでそこで解消をすることにも通じるのかもしれない。
このことは、二十歳ぐらいから世間のことに惑わされて一度捨てたことだったけど、こうして聖書を学ぶ中で通じるものが多々あった。
彼女からも、もしかしたらあなたのなかで許せないことがあるのかもよ。それを許すこと、自分を許すことでみえてくるのかもよ。
と言われたときハッとした。
人は様々なものを通して学ぶのだな。と感じたとともに、許せない自分を許していきたいと思った。
コメントを残す