人を攻撃する時というのは、同時に自分も攻撃している時。
そうなんだと思う。僕は少なくともそうだった。
僕はかつて自分の境遇の辛さから親に暴力を振るったり、弟にも暴力を振るってしまった過去がある。
いつも暴れてしまいながら、辛くてたまらなかった。
いつしか、その暴力の罪悪感は自分の心を蝕み、自分の身体を傷つけるようになっていった。
食べたものを吐き出したり、包丁で自分の腕を傷つけたり、夜中こっそりと起きては失踪をしようとしたり。
僕の身体の不調の一部は実は自分で自分を傷つけてきたことの結果もあったりする。
長生きなんかしたくない、なんなら余命でもあるなら早く死なせてくれ、ともよく思ったりもした。
一方で将来の夢を描いたりもした。
どこかで生きることの理由を欲しかったのだと思う。
今でもふと生きることを手放したい、そう思う時がある。でもその反面、心の何処かではこの先の将来を描いていたりもする。
矛盾だらけ。
僕にとって生と死という概念は常につきまとう。
いつかは人は何もしなくてもお迎えは来る。
でも、それまで苦しい人生を歩まなければならないのか、そうかつて思ったりもした。
というより、最近まで感じたりもしていた。
僕にとっての人生、僕一人がこの世から姿形を消したとしても、世の中はいつもの日常がやってくる。
だとしたら、僕は死んでもよいのではないか、そうふと考えがよぎる時がある。
僕はなんだか僕の中の僕が自分でナイフで傷つけてる姿を辛い時、ふと感じる時がある。
あるとき、リストカットのひどい当事者の方からの相談を受けてその腕を見た時も僕はあまり驚きはしなかった。なぜなら、自分も自傷行為はひどかったし、なんなら、僕もこうやって自傷行為できたら…とふと思う時もあった。そう思いながらも、冷静にその方の相談を聞いて、話を整理していく。
そういった過去もあった。
また、おそらく暴走族にいたであろう高校の時の同級生からも相談を受けたことがあった。いつもは強気でいる彼も僕の前では本音を話してくれたことがあった。きっと彼も本当はこういった安心を求めているのだろう。
そう当時、高校生の自分は感じた。
人は攻撃するのは、それだけ何かしらの恐れや身を守る言動だったり、心の防衛反応の表れだったりもするのだと思う。また、どうしていいかわからないという気持ちもあるのだと思う。
僕が岩手にきて、人を攻撃してしまうのもそういった事も少なからずあるのだと思う。
ただ、人を攻撃しながら同時に自分を攻撃しているに等しい。
少なからず僕はそうだ。
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